2003年3月、商品先物取引の営業マンとして仮病がバレるという不祥事を起こし、上司に詰められた挙句退職を決断せざるを得なくなった私に、執行役員である統括部長から人手を欲している部署があるので話を聞いてみないかと言われた。

その部署はGMS(グローバルマーケティングセクション)といって外国為替証拠金取引FXを扱う小さな部署であった。当時、ひまわり証券はFXを日本で最初に先駆けたパイオニア的存在でありデリバティブ取引の雄として大手などより知名度は劣るものの最新の金融サービスを多く手掛けプロ投資家の間でも知る人ぞ知る立ち位置の企業であった。

黎明期でありながら目玉商品でもあるFXは全社を挙げて注力する成長著しい部署であった。
しかし私は最初、乗り気ではなかった。なぜならそこは商品取引の営業で目の出ない成績不良者を受け入れる落ちこぼれ収容キャンプのような部署であったからだ。しかも扱う金融商品は変わってもやることは同じ電話セールス、飛び込みの営業部隊だった。相も変わらずまた名簿に定規を引いては繰り返し電話をかけ続け、飛び込みしては不審者扱いの営業活動か。もうさすがにその仕事とはおさらばしたい。外国為替に興味はあったが、根本的な営業スタイルは変わらないことを知っていたので、期待せずにとりあえず話しだけ聞きにいくことにした。

そこには以前に事実上左遷という形で飛ばされた面々が仕事をしていた。「お前も来たか」というような声無き声が聞こえたが、親しくしていた人も多かったので歓迎とも冷やかしともいえる表情で会釈をしてくれた。ミーティング室で担当部長が説明に来た。この部署は新規獲得をする営業部と、営業部が獲得してきた既存の顧客の資産を管理するコールセンターの二つの部門に分かれているとのことだった。

私はどうせ営業部にしか配属されないのだろうと思っていて、商いを行うコールセンターは経験者や専門的な技能を持っている者が行うハイレベルな部署だと思っていた。当然、顧客を獲得したことがない私は商いなど一度もしたことがなくコールセンターに従事できるとは思わなかったし、営業マンが苦労してあげた新規顧客の資産を運用管理するなんてそんな特権的で大それた仕事は理不尽とさえ思ったのだが、部長は簡単に説明を終えた後「お前も商品ではダメだったんだろう。ここは立ち上げて間もないからな、よく勉強してやる気があるならやってみたらどうだ。」と勧められた。私はダメもとで「コールセンターはできるんですか」と尋ねてみた。すると「コールセンターがやりたいのか、じゃあ次長を連れてくる」といってコールセンターのトップである次長を連れてきてくれた。

その次長とは面識があった、新入社員研修で会話を交わしたことがあり私のことも覚えていてくれた。感覚的に気に入られているような雰囲気を感じていたので、話も前向きなものだった。コールセンターのメンバーも私と同じように営業で泣かず飛ばずだった人間が寄せ集まって今では頑張ってやっているということだった。私は意外にもその事実を知り、憧れていた外国為替の売買を仕事にできるという期待に心が躍った。「ぜひやりたいです」と告げその日から晴れてGMSのコールセンターに異動することになった。波乱万丈に悲喜こもごも交錯する目まぐるしい一日だったが、最終的には深い海の底から太陽が降り注ぐ海面に一気に浮上したようなそんな救われる思いだった。

次の日からGMSの部署で、仕事である外国為替の勉強をすることになったが、2003年当時は個人向け外国為替証拠金取引FXを扱っている会社は少なく、世間にも金融商品としての知名度がほとんど知れ渡っていない時期であった。銀行の外貨預金と比べて圧倒的な手数料の安さ、得られる金利の高さ、資金効率の良さでひまわり証券は日本で始めてFXを開発した企業という触れ込みでどんどん顧客を開拓している時期だった。営業部は設立して間もない部署にも関わらず人員が加速度的に増えていき、その中でも若い新卒や入社数ヶ月の中途採用の人間などが新規獲得で頭角を表し一年目で主任昇格を果たしたりと、年上であり先輩であるヒラ社員の私は肩身が狭かった。

そんな刈り取り部隊の活躍と圧倒的な商品力を武器にして預かり資産、顧客数ともに増加していった。営業マンには新規獲得に専念してもらうため、彼らが契約してきた顧客をコールセンターの私たちが引き継ぎ、電話で挨拶をして日々の為替変動を報告し売買を促すという手数料振り部隊として機能していた。そこでは毎日パソコンに映し出される為替レートとロイターニュースに張り付き、テクニカル指標を駆使して翌日、数時間後、数分後の為替レートを予測し顧客にポジションをアドバイスするためのあらゆる現場の知識を吸収していった。

ただ、それでも営業部隊の一つには変わりなく毎日の商いのノルマが課されており、担当している顧客リストの中から言うことを聞いてくれる顧客に毎日のように連絡をとり「ドルが安いです、押し目買いしましょう!」「ユーロ上がったので利食いましょう!」という具合に回転売買を繰り返していた。相場は水物、当たるも八景、当たらぬも八景。そんなことを毎日繰り返せば、いずれは裏目に出た取引が大きく含み損を抱えて純資産は目減りしていく。人間の心理というものは少しでも利益の出たポジションは早々に手仕舞って利益確定をしてしまうが、たとえマイナスを抱えてしまっても反転を期待してすぐに損切りをすることはない。損切を薦めてもそれに従う顧客は当然少なかった。

したがって、逆のトレンドに捕まってしまうとそのままずるずると資産を減らしていってそのうち決済の踏ん切りがつかなくなるのだ。いわゆる塩漬け状態である。こうなってしまうと新たな新規注文で取り返しましょうと説得してもなかなか応じてもらえず、結果的に動かない顧客になってしまう。それでも手数料のノルマはこなさなければならない。コールセンターのトップであり責任者の次長は、始め抱いていた優しいイメージとは打って変わって鬼のように厳しい人であった。

一日に何度も、手数料をいくら振ったかを尋ねられ芳しくない者には容赦なく怒号が浴びせられ罵しり糾弾された。商品取引時代には支店長を歴任していた人物であり、かなり強引な手法で数字を作ってきたらしいという噂もあったほどだ。相場が動かない日など売買高は当然振るわない。そんな時でも、例外なくノルマをこなす必要があるために部内は皆、次長の目を過敏に気にするようになり張り詰めた緊張感に支配されていた。収益を上げてこそビジネスなのでノルマを達成するのは大義名分として理解できるが、顧客の資産が壊滅してしまっては元も子もない。休むも相場という概念がそこには無かった。そして誰も次長の恐怖政治に反発出来る者もいなかった。

そのころの私のライフスタイルといえばオフィスに缶詰で1日中画面を見ているか、顧客に電話しているかで外界の情報はネットか新聞かテレビかで仕入れるしかなかった。そのころ書いていた日記があるが、平日は為替レートの動向や経済指標を書く内容くらいしかネタがなく、日記というより日誌になっている。しかも外国為替は24時間逐次動いていて、寝る前にテレビなどで為替レートが表示されると、顧客が保有しているポジションの逆に動いていたりする時はとても憂鬱になる。朝起きていの一番に為替レートを確認し、急変動や暴落時などは出社するのも足が重い。顧客に悪い報告をする際も何とかして次の取引に繋げる材料を見つけないとならない。時には電話の向こうでありながら血相を変えて激怒されたこともある、自分のアドバイスで資産を減らして損をさせてしまうことに良心の呵責もあり苦悩していた。

それでも外国為替の世界というのは私が望んでいたエキサイティングでダイナミックな側面があり、仕事を忘れ興奮することも多かった。‘03~’04にかけては日本経済の阻害要因である円高を嫌う日銀の円売り介入などは、前触れも無く突然やってくる地震のような出来事が断続的に起こっていた。その正体が血税を大胆に投入している公務員だとは思えないくらい市場の荒くれ者だった。しかし市場参加者はここぞとばかりにドルを売り向かっていく。オフィスには「介入だ~!」という声が飛び交い、一斉に顧客に電話をかけまくる。私も介入が入った直後は日銀に対抗してドル売り円買いを仕掛けて何度も良い思いをした。ある時はトイレに行っている間に介入が行われて取りはぐったと悔しい思いをしたこともあった。さらに’03ドバイG7で日本当局の円売り介入が世界から批判され、その後介入の抵抗力を失ったドル円は歴史的な暴落を見せるのである。その真っ只中にいた私は、大半の顧客の純資産が激減する中でも何かとてつもないことが起きている国際金融市場の最前線で仕事をしているという排他的な優越感と歴史的証人になっているという実感があった。

商品の営業マン時代は1日14時間の週6日勤務だったが、FXの部署では12時間勤務の週5勤務と大幅に労働環境は改善した。交代制で夜勤も入っていた、夜20時から朝8時にかけて顧客の注文の電話番をするという仕事であったが担当は私1人なので深夜に突入するとほとんど電話などかかってこず、課されているタスクも他にないため自由にネットサーフィンをしたり椅子と椅子を繋げて寝ていたりした。

とある日、イラク戦争でアメリカがイラクを占領しフセイン大統領が行方不明になっていた頃、米軍が地下に潜んでいたフセインを捕らえた一報が入り外国為替市場でドルが急騰したのだ。未明に飛び込んだニュースだったため、一人で電話番をしていた私は鳴りやまない多数の電話に対処することが出来ず多くの顧客の注文の提供機会を逸し、クレームが大量に来てしまった。そのことを上司に責められたが、1人体制で突発的な対処を想定していなかった上層部の管理能力の無さだと言い返そうと思ったが飲み込み、忸怩たる思いであった。

今ではカスタマーディーラーというカッコいい名前の職種となっているが、私の外国為替勤務時代はネット取引も整備されていない頃で業界としても環境構築の途上であり、このようなすったもんだ奮闘しながらも地に足のついた仕事ぶりではなかったように思う。